中村文則 「教団X」

5月5日 

 

久しぶりにこんな長い小説を読んだ気がする。

神と宗教と性の話

 

子供の時から死ぬことが一番怖いことだった。死んで自分が「無」になるということが信じられず、また今この瞬間にも自分は死にむかっているというのがとても恐ろしかった。「死を恐れるものは生も恐れている」という言葉は私にとって呪いのような言葉だった。

この小説を読んで私は死ぬということがあまり怖くはないのではないか、と思うことができた。人間は皆原子の集まりでしかなく、私「個人」も常に流動している存在であり「意識」があるから私は私だと認識することができている。私の原子は常に変化している、私は「私」である、と明確に断言することはできない。私はこの私の「意識」によってのみ存在している。

死ぬとはその「意識」がなくなって、この世界に私の原子が広がって行くことだ。このようにして世界は回っているのだという。

 

抽象的でいまいち輪郭がつかめない教祖の話が続くこともあったが、心地よかった。自分の人生はあらかじめ決まっている一本の道を歩むということだけだ。運命は決まっているわけではないが、後から振り返ればそれは一本の道でしかない。そう考えるととても気が楽だ。それに私たちは物語を紡ぐために生きているのだ、という言葉もとても印象に残った。その一つの物語を通して、私たちはどんな感情を抱きそしてこの「世界」を目一杯楽しむのか。そのことを常に心に抱きながら生きたい、と思った。

 

「我々は物語の行為者であると同時に、その自分の物語を見つめる意識という観客でもある。だから最後まで、見届けましょう。意識がある限り、私たちは自分たちの物語を見届けなければならない。」

「物語を発生させるために我々は生きている。それは言い方を換えれば、他人の物語を消滅させる権利は誰にもないということです。」

「我々の貴重な人生を、そのような全体主義に飲ませるわけにはいけない。私たちの物語は、誰にも侵食されるものであってはならない。…私たちの体は常に入れ替わり時に交換されている。私も、目の前にいる皆さんも、元をたどれば先祖は一つです。遥か遠くの熱帯に潜む何かの魚も、なん億年という歳月をたどれば我々と同じ先祖を持ち、一つのアメーバのようなたゆたいだったのです。つまり私たちは、その何処かの魚と元々は一体だったということになる。世界をそのように眺める時、世界は全く違ったものとして私たちの目に飛び込んでくる。その圧倒的なシステムにより私たちは生まれたのです。その誰もが貴重なのです。日常の「生活にやられそうになった時は、どうか意識を無理にでも広げてみてください。これらの圧倒的な宇宙と素粒子のシステムの中で誇り高く生きましょう。散々泣いたり笑ったりしながら、全力で生きてください。あなたの保有する命を活性化させてください。あなたたちはせっかく無から有を手に入れたのだから。」

 

松尾さんの方の話は共感できるが沢渡さんの方は共感できない。共感できないというか共感できる人は、うーん、なんというかそれこそ沢渡的なというべきか、そんな人なのだろう。

 

小説の書き手の性別を特段気にしたことはなかったのだけど、これは男の人が書いた小説だなあ、とひしひしと感じた。例えば性の描写のところとか、女に対しての描写のとことか。

 

長い小説はその分世界に入り込めるからとても良い。良い小説だった。再読を是非